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大阪高等裁判所 平成2年(行コ)65号 判決

控訴人

北芝梅子

右訴訟代理人弁護士

森川明

渡辺哲司

村井豊明

渡辺馨

被控訴人

地方公務員災害補償基金京都府支部長

荒巻禎一

右訴訟代理人弁護士

小林昭

石津廣司

主文

一  原判決を取消す。

二  被控訴人が控訴人に対して昭和五五年一月一六日付けでした公務外認定処分を取消す。

三  訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

事実

第一  当時者の求めた裁判

一  控訴人

主文同旨

二  被控訴人

1  本件控訴を棄却する。

2  控訴費用は控訴人の負担とする。

第二  当事者の主張

一  当事者の主張は、原判決事実摘示と同一であるから、これを引用する。

二  争点

本件の争点は、豊一の死因及び豊一が公務上死亡したものであるかどうか(公務起因性)であり、争点に関する当事者双方の主張の要旨は、次のとおりである。

1  豊一の死因

(控訴人)

豊一の死因は、小脳出血である。

(被控訴人)

豊一の死因は、脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血である。

2  公務起因性

(控訴人)

(1) 公務上の死亡と認定するためには、被災職員の発症ないし死亡に公務関連性があれば足ると解するべきであり、豊一は、修学旅行引率業務に従事中発症し、死亡したものであるから、公務関連性がある。

(2) 被災職員の発症ないし死亡と公務との間に相当因果関係を必要とするとしても、豊一は、高野中学校及び下鴨中学校における極めて過重な職務による疲労の蓄積、ストレス、緊張の連続のため、小脳動脈の血管壁が脆弱化して血管壊死を来たし、さらに、昭和五三年五月一二日、重篤な風邪に罹患した身体で過重な職務である修学旅行引率業務に従事した結果、一過性の血圧上昇により、壊死状態にあった血管壁が破裂して小脳出血を発症したものであるから、豊一の発症及び死亡は、高野、下鴨両中学校における過重な職務に起因するものである。

(3) 仮に、豊一の発症について公務起因性が認められないとしても、小脳出血の発症が修学旅行引率業務中のバス乗車中であったため、直ちに異常を発見されず、適切な処置を受ける機会を失ったため、死亡に至ったものであるから、豊一の死亡と公務との間には因果関係がある。

(被控訴人)

(1) 被災職員の死亡が公務上と認定されるためには、公務と死亡との間に相当因果関係がなければならず、また、一定の時間的限定をもった明確な事由、すなわち「災害」概念に適合する事態の存在が必要である。

(2) 本件のような脳血管疾患の公務上外認定は、新指針等によるべきである。

(3) 豊一には、脳動脈瘤の基礎疾患が存在しており、公務の遂行が当該疾病の自然的経過に比較して著しく早期に発症又は増悪させる原因となったことを認めることはできないから、豊一の死亡に公務起因性を認めることはできない。

(4) 豊一は、脳動脈瘤破裂の発症後、短時間で死亡したものであり、救命可能性はなかった。

仮に、豊一の死因が小脳出血であったとしても、意識障害が生じてから死亡までの時間が短く、大病院に搬送しても手術開始までに死亡したと考えられ、また、昭和五三年当時の小脳出血の手術による救命率は低かったから、救命可能性はなかった。

第三  証拠〈省略〉

理由

第一請求原因(一)(豊一の死亡等)及び(二)(公務災害認定請求手続き等)の事実は、当事者間に争いがない。

第二豊一の死因について

一死亡当日の経過

証拠(〈書証番号略〉、証人橋本公博、福澤眞人、古谷三美、大橋寿子、永田圭代、三木悦子、岡田裕美、控訴人)によれば、豊一の死亡当日(昭和五三年五月一二日)の経過について、次の事実が認められる。

(1)  同日は、下鴨中学校三年生の修学旅行の出発日であり、三年四組の担任である豊一は、引率教員として参加した。豊一は、担任するクラスの生徒指導の他に、引率業務の分掌として、他の二名の教諭とともに、学年全体に対して次の行動予定等を指示伝達する生徒指揮を担当した。

(2)  豊一は、午前六時ころ起床し、軽い朝食を取って、午前七時ころ自宅を出た。豊一は、五月初旬ころ風邪をひき、市販の風邪薬を飲んだものの症状は改善せず、体調は良くない様子であり、妻である控訴人は、心配して修学旅行への参加をやめることを勧めたほどであった。

(3)  豊一は、午前七時四〇分ころ、集合場所である京都駅八条口に到着し、四組の生徒の点呼、服装・持物の検査、健康状態のチェック等を行った。四組の生徒のうち一名が集合時刻である八時二〇分に間に合わず、一五分ほど遅刻したが、一行は予定どおり九時九分に京都駅を出発して、新幹線で三島に向かった。

(4)  列車は、午前一一時五九分、三島駅に到着し、一行は、点呼の後、クラスごとにバスに乗車して、午後零時一五分ころ出発し、元箱根に向かった。

豊一は、バスの左側最前列の座席に座っていたが、出発後三〇分ほどして、右側最前列の座席に座っていた四組の副担任の佐々木教諭に対し、気分が悪い旨訴えた。バスの中では、一部の生徒が歌を歌うなどして騒いだが、豊一は、座席に静かに座ったままで、生徒に注意することはなく、佐々木教諭が注意を与えた。

(5)  バスは、午後一時一〇分ころ、元箱根に到着し、一行は、バスを降りて、杉並木等の見学に出発した。しかし、豊一は、見学に同行せず、一旦バスを降り、橋本教諭に「バスに酔ったらしい。しんどいから、バスで休ませてもらいます。」と告げて再びバスに乗車した。

バスは、見学終了後の集合予定場所である芦ノ湖畔まで移動したが、豊一は、そこで再びバスを降り、近くの芝生に仰向けに横たわり、じっと動かない様子であった。

午後二時三〇分ころ、生徒たちは見学から帰り、バスに乗って、大涌谷に向けて出発した。生徒たちが乗車する間は、豊一は、湖畔の石の上に腰掛けて、前かがみの姿勢で、顎を両手で支えるようにしていた。そして、生徒が全員乗車しても動こうとせず、橋本教諭に促されてようやく立ち上がり、バスの昇降口の手すりを持ち、無言のまま緩慢な動作でバスに乗り込んだ。

豊一は、大涌谷に向かうバスの中では、一層気分が悪い様子で、時々ビニール袋を口に当てがって吐こうとする動作をしており、佐々木教諭が心配して背中をさするなどしていた。

生徒の中には、乗物酔いを訴えた者はなかった。

(6)  バスは、午後二時五〇分ころ、大涌谷に到着し、生徒及び引率教員は、予定どおり見学に出発した。しかし、豊一は、顔色が悪く、苦しそうな様子で、左側最前列の座席に座ったままで、見学に同行せず、バスに残った。生徒のうち何人かは、豊一の様子を心配して、声をかけたが、豊一は、うなずく程度で応答することはなかった。また、数人の生徒が一旦バスを降りてから数分後にカメラを取りに戻った際には、豊一は、手足を投げ出したような姿勢で座席に斜めにもたれかかるように座っており、顔色は青白く、大きい寝息のような息づかいをしていた。

(7)  午後三時二五分ころ、豊一の様子を見にバスに戻った楠見教諭は、豊一に声をかけたが、応答がなかったため、肩をゆすったところ、豊一は、がくっと頭を垂れ、顔面は蒼白であった。異常に気づいた同教諭は、直ちに付添の山雄医師を呼び、午後三時三〇分ころ、駆けつけた同医師が豊一を診察したところ、豊一は、顔面蒼白で、脈はなく、呼吸は停止し、瞳孔も散大していた。

そこで、直ちに救急車が手配され、豊一は、午後三時五〇分ころ、救急車に収容され、酸素吸入と心臓マッサージを受けながら搬送され、午後四時五分ころ、箱根二の平病院に到着した。

同病院で佐野医師の診察を受けた際には、豊一は、既に意識昏睡、瞳孔散大、呼吸・脈拍停止、心音なしという状態であり、酸素吸入、人工呼吸、心臓マッサージ等の蘇生のための措置がとられたものの、状態の改善は見られず、午後四時三〇分、死亡が確認された。

死後に行われた死体検案の際、佐野医師が豊一の後頭下穿刺をしたところ、血性髄液が認められた。

二死因の検討

1  後頭下穿刺の結果、血性髄液が認められたことは、豊一にくも膜下出血があったことを示すものであり、くも膜下出血を来たす疾患としては、①脳動脈瘤破裂、②脳動静脈奇形破裂、③脳内出血、④抗凝固剤療法の合併症、⑤出血傾向を伴う血液疾患(血友病等)、⑥脳腫瘍からの出血、⑦頭部外傷等が考えられるが、豊一の年齢、既往歴、死亡当日の経過から、②及び④ないし⑦の可能性は否定され、したがって、豊一の死因としては、脳動脈瘤破裂と脳内出血の可能性が問題となる(〈書証番号略〉、証人新宮正)。

2  証拠(〈書証番号略〉、証人鍋島祥男、新宮正)によれば、脳動脈瘤破裂及び脳内出血の症状等について、次の事実が認められる。

(1) 脳動脈瘤破裂

脳動脈瘤破裂は、脳の表面を走る動脈の分岐部等にできた動脈瘤が破裂して出血する疾患であり、くも膜下出血の原因として最も頻度が高い疾患である。破裂前は無症状である場合が多いが、破裂に先行して警告症状が認められる例もある。警告症状は、動脈瘤及び近傍動脈の圧迫を原因とする局所性頭痛、眼球運動障害等、動脈瘤からの小出血を原因とする全般性頭痛、嘔吐等、血管の攣縮による虚血を原因とする平衡感覚消失、めまい等の三群に分類され、各群の警告症状出現からくも膜下出血発症までの期間の平均は、それぞれ110.5日、10.4日、21.0日とされる。破裂時の症状としては、「ハンマーでなぐられたような」などと形容されるような、突発的な激しい頭痛を特徴とし、局所神経症状を伴わない。出血が多量の場合は、直ちに意識障害、呼吸停止を来し、死亡に至る。

(2) 脳内出血

脳内出血は、脳実質内の細い血管が破れて出血する疾患であり、出血がくも膜下腔に及ぶことにより、血性髄液の原因となる。

発症の初期の段階では、出血部位に対応する局所神経症状が表れ、出血が増大し、脳組織の破壊や血腫の形成が進むに連れて、神経症状の増悪や頭蓋内圧亢進による頭痛等の症状が見られ、更に血腫の増大により脳幹部が圧迫されるに及んで、意識障害、呼吸停止を来す。

脳内出血のうち、小脳に出血が起こる小脳出血は、脳内出血全体の約一〇パーセントを占めるが、小脳が平衡感覚を司る部位であるため、小脳出血の場合の初期症状としては、回転性のめまい、動揺感、嘔吐等が特徴的であり、これらの初期症状は、同じく平衡感覚を司る耳の前庭部の異常によって起こる乗物酔いの症状と似ている。そして、出血の増大に伴って、起立・歩行不能、構音障害、顔面神経麻痺等の症状が表れる。

3 前記一認定の豊一の死亡当日の経過によれば、豊一は、三島駅でバスに乗車してから約三〇分後に気分の不快を訴え始め、同人自身は、これを乗物酔いによるものと考えていたことが認められる。しかし、当日、生徒の中には乗物酔いを訴えた者のなかったこと、豊一が過去に乗物酔いの既往歴があったことを窺わせる証拠はないうえ、乗物酔いは乗物から降りれば短時間で症状が軽快するのが通例である(〈書証番号略〉、証人新宮正)のに、豊一は、元箱根でバスを降り、一時間余の間休息したにもかかわらず、症状は改善せず、かえって増悪していると認められることからすると、豊一の右症状を乗物酔いによるものとみることは妥当ではなく、むしろ、乗物酔い症状と類似する小脳出血の初期症状と考えるべきである。また、芦ノ湖畔で休息をとった後の豊一の経過をみると、生徒に対する指揮、指導を行った様子がないうえ、生徒が全員バスに乗車してもなお自らは乗車しようとせず、他の教諭に対して自己の症状を説明したり、引率業務につけないことの釈明をすることもなく、生徒からの呼びかけに対しても応答しないなど、引率教諭の立場にある者の通常の行動としては理解し難い点が多く見られるが、これらは、引率教諭として生徒に対する指導を行うことができないほど初期症状が増悪していたことを示すとともに、起立・歩行や発語についても障害が生じていたことを窺わせるものということができる。そして、遂に大涌谷のバスの中で意識障害、呼吸停止に至っているのであって、このような症状の経過は、小脳出血が発症し、出血が増大する場合の症状経過とよく符合するものであり、したがって、豊一は、三島駅から元箱根に向かうバスの中で小脳出血を発症し、出血の増大に伴って症状が増悪し、死亡するに至ったものと推認される。これは、鍋島、半田、新宮の各医師が一致して指摘するところであり(〈書証番号略〉、証人鍋島祥男、新宮正)、当裁判所も豊一の死因については、右各医師の見解が妥当なものと判断するものである。

4  これに対し、被控訴人は、豊一の死因は脳動脈瘤破裂であり、大涌谷のバス内で異常が発見される直前に発症したものであると主張し、小竹医師は、被控訴人の主張に沿う見解をとっている(〈書証番号略〉)。しかし、前記のとおり、脳動脈瘤破裂は、発症時の激しい頭痛を特徴とするものであるところ、豊一が激しい頭痛を訴えた様子はない(もし、豊一の訴えがあれば、バス運転手がこれに気づくはずである。)し、大量の出血により直ちに意識障害、呼吸停止を起こして、頭痛を訴える余裕がなかったと仮定しても、大涌谷到着までの豊一の症状経過を脳動脈瘤破裂の警告症状とみることは、前示の警告症状出現から脳動脈瘤破裂までの期間に照して疑問であり、また、単なる乗物酔いとみることも前示のとおり合理性を欠くものというべきであり、他に豊一の死亡が脳動脈瘤破裂によるものであることを窺わせる事実を認めることはできないから、右主張は、採用することができない。

第三公務起因性について

一公務起因性の要件、判断基準

地公災法三一条にいう「職員が公務上死亡した場合」とは、職員が公務により負傷し、又は疾病にかかり、右負傷又は疾病により死亡した場合をいい、公務により疾病にかかったというためには、疾病と公務との間に相当因果関係のあることが必要であるが、右の相当因果関係があるというためには、必ずしも公務の遂行が疾病発症の唯一の原因であることを要するものではなく、当該被災職員の有していた病的素因や既存の疾病等が条件となっている場合であっても、公務の遂行が右素因等を自然的経過を越えて増悪させ、疾病を発症させる等、発症の共働原因となったものと認められる場合には、相当因果関係が肯定されると解するのが相当である。

なお、被控訴人は、本件のような脳血管疾患の場合の公務上外認定は、新指針等によるべきであると主張するが、新指針等は、公務(業務)上外認定処分を所管する行政庁が処分を行う下部行政機関に対して運用の基準を示した通達であって、公務外認定処分取消訴訟における公務起因性の判断について、裁判所を拘束するものではないから、被控訴人の右主張は、採用することができない。

二豊一の勤務状況等

1  高野中学校における勤務

豊一は、大正一一年一月五日生まれで、昭和四七年四月から昭和五三年三月までの六年間、高野中学校で勤務した(争いなし)。

証拠(〈書証番号略〉、証人壁谷洋一、辻田昌三、古賀敏弘、控訴人)によれば、昭和五二年度(昭和五二年四月から昭和五三年三月まで)における豊一の勤務状況は、次のとおりであった。

(1) 教科

豊一は、一年生四クラスの理科の授業を担当し、一週間の授業時間は、他の理科の教師と同様、一六時間であった。

高野中学校は、昭和五二年度に京都市から評価研究指定校の嘱託を受け、豊一は、理科の教科主任として、研究活動に当たり、テストの採点及び結果の分析方法を通常よりも細かく工夫するなどしたが、そのため、テストの採点には、通常より多くの時間を必要とした。

(2) クラス担任

豊一は、一年二組の担任として、週二時間の授業(道徳、学活)を受け持ったほか、クラスの生徒の指導に当たった。

高野中学校は、同和地区から通学する生徒の割合が14.5パーセントと京都市内の他中学に比べて高く、一年二組にも同和地域から通学する生徒が五名おり、豊一は、これらの生徒について、ほぼ毎月一回の割合で家庭訪問を行った。家庭訪問は、保護者の在宅する夜に行わなければならないことが多く、訪問に要する時間は、一軒当たり二、三時間に及ぶこともあり、保護者等との応対は、各家庭や生徒の事情に配慮し、言葉づかいにも神経を使わなければならなかった。

(3) 学習会

高野中学校では、同和地区生徒を対象として、基礎学力の向上を図るため、学習会活動を行っていた。豊一は、従来から学習会活動に参加しており、補助教材を手作りするなどして、熱心に指導に当たっていたが、昭和五二年度は、一年生の理科を担当し、約三〇名の生徒を対象として、毎週一回、午後七時から午後九時まで授業を行った。

(4) 庶務・育友会関係

豊一は、昭和五二年度の校務分掌上は、庶務部長であり、庶務部を代表して週一回開かれる中学校の運営委員会に出席し、互助・共済組合関係等の事務を担当したほか、庶務部長があたるとされていた育友会書記の職務を担当した。育友会は、父母と教師によって組織され、教育環境の改善及び生徒の福祉の増進のための諸活動を行っていたが、豊一は、書記として、毎月一回行われる育友会の運営委員会や各専門委員会への出席、議事の記録、協議結果の各方面への通知・連絡等の事務を担当した。

(5) 園芸クラブ関係

豊一は、園芸を趣味としていたこともあり、園芸クラブの顧問に就任したが、学校の敷地内の花壇や樹木の整備も園芸クラブ顧問の仕事であり、豊一は、花壇や樹木の整備計画を立て、日曜日や夏休みにも出勤して自ら手入れをするなど、熱心に整備に取り組んだ。

(6) 豊一は、生真面目な性格で、一つ一つの仕事をこつこつと時間をかけてやり遂げていくタイプの教師であり、これらの多様な職務のいずれにも熱心に取り組んでいた。高野中学校における勤務時間は、休憩、休息時間を含め、午前八時二〇分から午後五時五分までと定められていたが、学習会、同和地区生徒への家庭訪問、育友会関係の会議等のため、帰宅時間が遅くなりがちであった。また、勤務時間中は、授業やクラスの生徒指導、会議等に追われるため、副教材作り等の教科準備や育友会関係の各種文書の作成等の仕事は自宅に持ち帰らざるを得ず、帰宅後もこれらの持ち帰りの仕事を行うことが日常的になっていた。

(7) 春休みの間の勤務状況

豊一は、昭和五三年三月二四日に下鴨中学校への異動の内示を受け、同日から三月末日までの間は、一年二組の生徒指導要録、観察記録簿の作成、理科教室準備室の新設に伴う理科教材の移転作業、要保護家庭への教育扶助費の出納清算のための家庭訪問等の残務整理及び事務引継の職務に従事し、そのため、二六日の日曜日と自宅研修とされた二九日、三一日を除いて出勤した。三一日は、一年二組のお別れクラス会に出席した。

2  下鴨中学校における勤務

証拠(〈書証番号略〉、証人橋本公博、富田穆、控訴人)によれば、豊一の昭和五三年四月一日から死亡前日までの下鴨中学校における勤務状況は、次のとおりであった。

(1) 豊一は、四月一日、下鴨中学校に着任した。翌二日(日曜日)は娘の結婚式に出席し、三日、四日は自宅待機であったが、この間、校長から電話で三年生の担任と同和主任への就任を依頼され、承諾した。五日は、職員会議、教科会、学年会等の年度当初の会議に出席し、七日は、高野中学校での離任式の後、下鴨中学校に出勤して、学年会に出席し、新学期の準備を行った。この間、自宅では、新学期に備えて、担任するクラスの生徒カードの整理、クラス発表の掲示用紙の作成、出席簿の記入等を行った。

(2) 教科及びクラス担任

豊一は、三年生の理科を担当し、一週間の授業時間は、二〇時間であった。また、三年四組の主担任として、週二時間の授業(道徳、学活)のほか、クラスの生徒の指導に当たった。

クラスには、指導上問題のある生徒が数名おり、また、転任してきたばかりの豊一の生徒に対する対応を試そうとする動きも見られるなどしたが、豊一は、昼食や放課後の清掃を生徒とともにするなどして、できるだけ生徒と接触する時間を持ち、一人一人の個性を早く把握し、きめ細かな指導を行おうと努めた。

(3) 修学旅行準備

四月は、三年生にとっては、最大の行事である修学旅行を間近に控えて、そのための準備に忙しい時期であった。旅行の準備は、一年生の時から始められ、二年生の終わりには、旅行計画は九割方できていたが、各クラスでは、四月以降、旅行中の行動の単位となる班編成や、列車、バス乗車時の座席配置、宿泊時の部屋割、レクリエーションの内容等の決定を行わなければならず、担任教師としては、生徒の自主性を尊重しながら、円滑にこれらの事項が決定されるよう指導するとともに、旅行中の行動について注意すべき諸事項を各生徒に周知徹底しなければならなかった。特に、豊一は、下鴨中学校に転勤した直後であり、短期間のうちに、それまでの修学旅行の準備の内容を把握するとともに、一人一人の生徒の性格や指導上注意すべき点をつかみ、修学旅行の準備作業に当たらなければならなかったため、その負担は大きかった。また、四組の生徒のうち二名が修学旅行不参加を申し出たため、参加の説得のための家庭訪問や不参加が決った生徒のための旅行期間中の自習計画の立案等も行わなければならなかった。

(4) 死亡直前の勤務状況

五月四日(木)は、放課後、修学旅行準備(こだま号座席配置決定、レクリエーション係指導)を行い、午後六時ころ下校。帰宅後は、生徒の性格等を知るために書かせた作文を読んで、メモをとる作業をした。

六日(土)は、午前中は通常の勤務を行い、午後は、理科クラブの指導を行い、午後五時三〇分ころ下校。帰宅後、小テストの採点。

七日は、日曜日であったが、施設から通学している生徒と話し合うため、施設を訪問し、夕方帰宅。帰宅後は、小テストの採点。

八日(月)は、学年会で修学旅行の事前指導打ち合せを行い、午後五時四〇分ころ下校。帰宅後、外部講師として参加することになっていた高野中学校養正学習センターの開講式に出席し、センターでの活動の打ち合せの後、午後一〇時ころ帰宅。

九日(火)は、放課後、四組で盗難事件が発生したため、該当生徒の事情聴取を行うとともに、修学旅行不参加生徒のための旅行期間中の学習計画の立案、自習プリントの作成を行い、午後六時ころ下校。帰宅後、理科の教材研究。

一〇日(水)は、放課後、修学旅行引率教員全員による打ち合せ会が行われ、前日予定の確認、旅行点検表の点検、災害時対策の協議、準備物の点検を行い、午後五時三〇分ころ下校。帰宅後、教材研究。

一一日(木)は、修学旅行の最終準備として参加生徒の確認、自習課題の整備、携行物の点検を行い、午後五時五〇分ころ下校。急病のため、修学旅行への参加を急遽とりやめた生徒の家庭訪問を行い、帰宅。帰宅後は、翌日からの修学旅行に備えて、クラスの生徒の写真を見て、顔と名前を確認する作業を行った。

3  豊一の健康状態

証拠(〈書証番号略〉、証人橋本公博、控訴人)によれば、豊一の健康状態について、次の事実が認められる。

豊一は、自己の健康には自信を持っており、高野中学校での六年間を通じて無欠勤であり、定期健康診断においても、異常を指摘されることはなく、血圧も昭和五二年六月の検診時まで、いずれも正常であった。

しかし、昭和五二年ころからは、疲れた様子で帰宅し、口数も少なく、表情も暗い感じとなり、それまで時々行っていた家族での旅行に行くこともなく、好きであった庭いじりもしないようになった。

修学旅行を間近に控えた昭和五三年五月初旬には風邪を引き、市販の風邪薬を服用したものの症状は改善せず、声が出にくくなって、生徒への連絡事項等を口頭で告げることができず、黒板に筆記して伝達しなければならないほどであった。

三小脳出血の発生機序等

小脳出血を含む脳内出血の発生機序については、脳実質内の微小な血管の血管壁が、中膜の筋細胞の減少や内膜の透過性の亢進によって脆弱化し、血管壊死の状態となっているところに一過性の血圧の上昇による負荷がかかって血管壁が破れ、出血するとされている。そして、このような血管壁の脆弱化に影響を与える要因の一つとして、肉体的・精神的に過重な労働による疲労及びストレスの持続が筋細胞への負荷となり、あるいは、血管作動性物質に影響を与えて透過性を高め、血管の脆弱化の原因となること、また風邪による体調不良、疲労、ストレスなどが一過性の血圧上昇の原因となることが認められている(〈書証番号略〉、証人鍋島祥男、新宮正)。

四公務起因性の検討

前記認定の各事実によれば、豊一の昭和五二年度の高野中学校における職務は、理科の教科主任、一年生のクラス担任としての通常の職務に加えて、同和地区生徒の家庭訪問、学習会、育友会関係事務、園芸クラブ顧問等の負担により、通常の中学校教職員の職務に比べて、肉体的・精神的に相当に多忙であったものであり、これらの多様な職務のいずれにも生真面目かつ熱心に取り組み、日常的に帰宅後も仕事を持ち帰って行っていたことによる疲労及びストレスの蓄積は、加齢や日常生活上の諸要因による自然的な経過を超えて、血管の脆弱化を促進する要因となりうる程度の負荷であったと認められる。そして、このような疲労の蓄積やストレスは、異動に伴う残務整理、引継事務及び着任直後の新学期の準備等の負担により、春休み期間中も十分な休息をことができずに持続し、さらに下鴨中学校への異動後の職務環境の変化により、ことに同校では着任直後に責任の重い三年生のクラス担任を命ぜられ、しかも着任後一か月余りの後に迫っている学校にとって最大の行事であり、引率教諭にとって最も負担の大きい修学旅行の準備作業に忙殺され、短期間のうちに生徒各人の個性を把握し、的確な指導を行うために、通常二年生から持上がりで三年生のクラス担任となる教諭に比して、より一層強い緊張とストレスの負担がかかったものと考えられる。豊一は、これらの過重とも思われる職務を誠実に遂行するべく勤務時間外にも自宅に仕事を持ち帰るなどして努力を続けた結果、相当の疲労が重なり、修学旅行の直前には風邪に罹患し、旅行当日にもその症状は改善されず、声が出にくいような体調不良で妻である控訴人が心配して休むよう勧めるほどの状態であったにもかかわらず、引率教諭としての責任感からあえて風邪を押して旅行に参加するに至ったものと認められる。

一方、豊一は、高血圧の既往歴はなかったし、脳血管に動脈瘤等の奇形や基礎疾患が存したことを窺わせる証拠はなく、私生活においても特に血管の脆弱化を促進させ、脳内出血を発症させる危険因子となるべき要因の存在を認め得る的確な証拠はなく、同人の死亡時の年齢(五六才)からすると、加齢及び日常生活上の負荷による自然的経過のみによって、小脳出血の発症に至ったとも考え難いところである。

以上の点及び前示の豊一の発症から死亡に至る経過を総合すると、豊一は、高野中学校及び下鴨中学校における多忙な職務の遂行による持続的な肉体的・精神的疲労及びストレスが小脳部位の血管の脆弱化を自然的経過を超えて進行させる大きな要因となって、血管壊死状態となっていたところ、従来からの疲労の蓄積に加えて修学旅行当日の風邪による体調不良を押して参加したことによる極度の疲労及び引率業務による緊張とストレスが重要な原因となって右業務従事中に、一過性の血圧の上昇をきたし、これによって小脳出血を発症し、死亡に至ったものと認められるから、豊一の死亡は、公務と相当因果関係があるものと認めるのが相当である。

第四結論

以上によれば、豊一の死亡について公務外であるとした本件処分は違法であり、右処分の取消しを求める控訴人の本訴請求は理由があるから認容すべきである。したがって、これと結論を異にする原判決を取消して、本件処分を取消すこととし、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法九六条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官山本矩夫 裁判官福永政彦 裁判官山下郁夫)

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